サッカーの「オフサイド」というルールはご存知でしょうか?
サッカーをやったことがある、またはかなりのサッカー好きならこのルールについて理解ができるかと思いますが、
それ以外の方で「オフサイドとはこういうルールだ」と正確に説明するのは難しいのではないでしょうか?
世の中には、改正に改正を重ねたルールが「そもそもどんな目的でそのルールを作ったんだっけ?」というものが多々存在します。
サッカーの「オフサイド」というルールを最初に作った目的は、敵チームのゴール前に味方がずっと待っててそこにボールをポーンと蹴って、簡単にゴールを入れてしまうのはずるいし、スポーツとしても面白くないよね、ということで作ったのだと思います。
それが改正を重ねるうちに、例えば「出たボールに関与していない選手は、オフサイドのポジションにいてもオフサイドにはならない」というルールをオフサイドルールに加えました。
ルールのためのルールを作ることで、そのルールが複雑になり、専門外の人には分かりにくくなっていくことのいい見本かと思います。
一方で、世の中にはルール違反をしても罰せられなければ、その中で何をしてもいいんだという考え方や雰囲気も蔓延しているような感じがします。
再びサッカーに例えると、サッカーには手を使ってはいけないというルールがあります。サッカーを一回も見たことがないという方以外は当然のルールだろうと思います。
しかし、手を使ってゴールをしても、審判に見つからなければルール違反にならない、といういう考えで、実際にそういう選手が手を使ってゴールを決めて喜んでいたらどう思うでしょうか?
それって確かにルール違反ではないけど、それをやったらサッカーというスポーツとして面白くないよね、と思う方が多いのではないでしょうか。
まあ、個人的にはそんな常識外のことをすることは面白いと思ってしまう方なんですが、
でもやはりみんながそんなことをしていたらサッカーというスポーツ自体が成り立たなくなってしまうと考えます。
さて、日本に限らず多くの国家というものは、法治国家であり、国家もその国に住む国民も同じ法の下に法を守って日々生活をしています。
憲法以下さまざまな法律は、最初に作られた時には何か目的を持って作られたのでしょう。
多くの法は「社会が良くなるように、うまく回るように」だったり、「犯罪を取り締まるため」、だったり、「誰かが一方的に不自由や不利益をこうむらないように」などのために作られたのではないでしょうか。
それが法治国家という概念ができて以来、法律をどんどん作り、どんどん改正することで「法が網の目のように」なってがんじがらめになってきてしまったのではないでしょうか。
ルールのためのルールを作り、法律に違反さえしなければその中でどんなお金儲けをしても許される社会、お金儲けをするためなら合法的な手続きで都合良く法律を変えていく社会…
ルールの飽和状態になった社会では、もはや何のためのルールなのかわかならくなり、モラルや道徳心として例えルールの中に納まっていても、それをやったらだめでしょうということを平気でやり出しているように感じます。
今後ますますルールが飽和状態になってきた社会では、何が起こるのでしょうか?
自然界においては飽和状態になれば爆発し、収縮に向かうのが常ですが…
70年前もそんなことが起こりました。
今回の安保法制関連のことも「オフサイド」なみに複雑になり、専門家やよっぽど勉強している人以外は中身について完全に理解するのは難しいのではないかと思います。
それでも世論調査など各種調査において、おおむね2/3以上の人たちがこの法案に反対しているのを見ると、
法案の中身がどうという細かい話より、「手続き上は確かに合法かもしれないけど、そんなやり方が許されるのか?」というモラルだったりルールを守るという道徳心(?)みたいなところから不安を持つのだと私は考えています。
私たち庶民はルールを守って生活するのが当たり前だと思っていたら、ルールを作る人たちが合法的かもしれないけど、解釈でもってルールを変更したら普通に考えたらおかしな話だと思います。
「万引きは犯罪である」または「万引きはしてはいけないでしょう、当然」というモラルから、
「万引きをしても捕まらなかったら許される」あるいは「万引きして捕まっても、裁判で無罪を勝ち取れば問題ない」というモラルになっても世間が許してくれるという社会になってしまうようでなりません。
そして、現にそうなりつつあるのではないでしょうか。
なにせ、国のルールを作る人たちが率先して後者のモラルになってしまっているのだから。
安保法制から今話題の新国立競技場まで、現代の日本社会(多くの先進国も)の問題の根幹が目に見える形で噴き出してきているのだと思います。
木や野菜でも、地中の根っこが腐ると地上の枝葉も影響を受けて腐ってくるのと同じように。
逆に、根がしっかりしていれば、枝や葉の一部が悪くなっても生き延びることはできるのですよね。
私たち庶民はその腐った根っこの部分の修復からやっていかないといけないのではないでしょうか?
上澄みだけすくって取り替えてもまた同じ問題が起こるし、飽和して爆発して、収縮しておしまいということになりかねませんよねえ…
2015年7月20日月曜日
2015年7月14日火曜日
お店を始めます
前回の投稿から間が空きましたが、
すっかり季節は夏ですね。
この間、紅茶作りから畑仕事と新しいお店の準備などなど盛り沢山にやることが重なりこのブログの更新も滞ってしまいました。
さて、久々の更新で宣伝をするのも申し訳ないですが、倉敷市で新しくお店を開くこととなりました。
お店の名前は『うり坊舎』と言います。
水曜日と日曜日のみの営業です。
本がたくさん置いてあるので、本を読みに来るだけでもけっこうです。
うちで焙煎したコーヒー豆や焼き菓子、自然農で育てた野菜などを販売する予定です。
うり坊舎の内容については、お店のブログを作りましたので、そちらをご覧いただければと思います。
うり坊舎のブログuribousha.exblog.jp
すっかり季節は夏ですね。
この間、紅茶作りから畑仕事と新しいお店の準備などなど盛り沢山にやることが重なりこのブログの更新も滞ってしまいました。
さて、久々の更新で宣伝をするのも申し訳ないですが、倉敷市で新しくお店を開くこととなりました。
お店の名前は『うり坊舎』と言います。
水曜日と日曜日のみの営業です。
本がたくさん置いてあるので、本を読みに来るだけでもけっこうです。
うちで焙煎したコーヒー豆や焼き菓子、自然農で育てた野菜などを販売する予定です。
うり坊舎の内容については、お店のブログを作りましたので、そちらをご覧いただければと思います。
うり坊舎のブログuribousha.exblog.jp
2015年4月17日金曜日
本屋に行くとなんとなく今の流れって見えますよね
私は本屋が好きで、どこかに出かけた際に時間がある時は本屋で過ごすことがあります。
インターネットと違い、本屋では雑誌など特に今の時代の流れを俯瞰できると思います。
雑誌コーナーを眺めていると、最近でも料理もファッションも建築物も自然の素材を使っている物を特集していると個人的には感じます。
大量生産の人工的な物や場所には飽き飽きして、古い物や手づくりの物、本物の素材で作られた物を欲しているのだと思います。
2000年代後半から現在進行形で10年近く続く自然志向・回帰への流れは一過性のブームではなく、もはや価値観がそちらの方向へ向いていることを示しているのではないでしょうか?
バブルをほとんど経験していな1980年代生まれ以降の世代にとっては、「大学を出て安定した会社で朝から晩まで働き、安定した給料をもらい、マイホームやマイカーをローンで購入することが幸せ」という夢はもう見ることが難しいということは共通の認識としてあると思います。
実際にアンケートを取ったわけではないですが、なんとなく実感としてあると感じています。
「ワークライフバランス」という言葉も、もう何年も前から言われているし、会社を辞めて独立したり、フリーランスで「自分らしく働きたい」と思う人もどんどん増えています。
都会から田舎に移り住んで「半農半X」という形で暮らす人もますます増加傾向にあるでしょう。
これらの流れは「パラダイムシフト」と言えませんか?
日本に限らず、人類の歴史を見ても、人々の価値観が変わることで世の中の情勢が変わっていくことが多々ありました。
貴族社会から武家社会へ、戦国時代から江戸時代へ、江戸時代から明治以降の時代へ。
人々の価値観が徐々に変わっていくことで、最終的にはそれまでの為政者が変わってしまうという現象がありました。
その際に大抵は古い価値観や既得権にある勢力は最後までこの流れに抵抗して、一般市民を巻き込んで消滅していくということが歴史上ずっと起こってきたことでした。
ここまで読んで「もしかして?」と思った方もいらっしゃると思いますが、現政権もこの大きな価値観の変化の流れについて行ってないのではないかと思いませんか?
辺野古や原発への対応や、経済成長優先の政策、戦争経済の推進、憲法改正、などなど…
ちょっと我々若い世代感覚には合わない感じがしてしまうんですよねえ。
そこじゃないんだよなあ…って。
現政権が時代錯誤の感覚で政治をやっているから、沖縄では軋轢が生まれているし、政治に関心がなくなり選挙でも投票率は下がる一方になるのではないかと思います。
でも大きな流れで見ると、ここまで来たら世間の人の価値観はますます変わって行くし、まだ古い価値観の中でいる人も変わらざるを得ない状況になるのではないでしょうか。
ファッションを見てもそうですが、最初に流行に敏感な人が新しいスタイルのファッションを始めて、そこそこ流行を追う人たちに広まり、最後にはまったく流行に興味がなくても、お店にはその時代に合った服しか売っていないので、なんとなくみんな流行の物を着ている(その頃にはすでに流行遅れになっているかもしれませんが^^)という流れになっています。
今は時代の大きな変革期にあると思うので多少の混乱はしょうがないですが、より大多数の人が価値観が変わっていけば、勝手に時代は変わるのではないかと私は楽観視しています。
幸いなことに、今はインターネットでたくさんの情報が得られウソやごまかしが効かなくなっているので(テレビ局に圧力をかけたって、みんなテレビの多くはやらせだって気づいているし^^)、今行っているような政治のやり方は行き詰まると思います。
とは言っても、混乱は嫌だし、平和に変革して欲しいと願っているので自分はブログやいろんな人と話すことを通じて多くの人に田舎暮らしの良さみたいなのを伝えて行きたいなあと思っています。
2015年4月3日金曜日
春うららで思うこと
春になり暖かくなってくると、集落のみなさんも活動を始める。
それは人だけでなく、動物や植物同様だ。
正確には、2月あたりからモゾモゾと始まっている。
タチツボスミレやオオイヌノフクリなどの可憐な花、タンポポ、梅の花などが咲き始め春の始まりを知らせてくれる。
イノシシも裏の山でガサガサ活動を開始した。
地面を見ると、何かが土から出て来たような穴がチラホラ見られる。
モグラかな、ヘビかな。
ウグイスの子どもが鳴き声の練習をし始め、いよいよ春も近いなと感じてくる。
暖かくなって気持ちがいいなあと思う一方で、どこからともなく虫も姿を現す。
山桜がソメイヨシノよりも早く咲き、ああもう春なんだなあと思ったときにはもうすでに薪ストーブの出番が少なくなっていた。
自然界には(当然だけど)多種多様な生き物が生きている。
それぞれが自分達の種(しゅ)の保存を目指し、食べたり食べられたり、種の領域を浸食したりされたりして微妙なバランスを保ちながら一生懸命生きている。
私が住むこの集落では、圧倒的多数で人以外の生き物がこのようにして住んでいる。
この集落では人間がマイノリティと言えるのではないか。
我々は自分が住むこの土地を見えない線で線引きし、ここからここまでは「私の土地」と決め、固定資産税を払って土地を「所有する権利」を誰かから認めてもらっている。
当然ながら、動植物(微生物を含め)は、そんなことおかまいなしに「私の土地」に入ってくる。
例えば、イノシシが私の所有する土地に入ってきて土を掘り起こし荒らしたとする。
人間から見れば、イノシシは作物や土地を荒らす「害獣」となる。
でもイノシシからしたら、そんなことは関係なく食料を求めて活動しているだけなのだ。
どっちも言い分はあるし、どちらも正しい。
それは人が脳で創った善悪の価値で判断するものではない。
起こった出来事は、出来事としてあるだけで、「良い悪い」を判断するのは結局、脳で抽象概念をつくり出すことのできる人間でしかない。
私たちはつい、一方的な価値基準から物事を見てしまう。
特に人間にとって都合のよい価値から見てしまう傾向にある。
その価値基準の多くは、今まで刷り込まれた常識や固定観念や偏見、損得勘定から来ている。
特に最近では、「効率」、「お金」というよりとても人間的な基準がより重要視されているのではないかと個人的には感じている。
街では人工的な物に囲まれ、人間に都合の良い動植物以外はいない環境ではそうなってしまうのも無理のない話だと思う。
その反面、人間は他の物の気持ちを想像して、その物になって考えることのできる生き物である。
物語や映画を観て、主人公の気持ちになり、自分をその主人公に置き換えることで感動することができる。
逆に言えば、物語の主人公に感情移入できないと、感動することはできない。
同時に物語を作る人は、(必ずしも人間ではない)物や生き物の気持ちになって架空の話を創造することができる。
アイヌのユーカラ、昔話など古くから多くの物語に見ることができる。
「思いやり」や「お互い様」といった言葉からも、人間は他人(または他の生き物)の身になって考えることができるということを表している。
現代風に難しく言い換えれば、「多様な価値観を認め、対話によって問題解決をしていこう」ということなのかもしれない。
しかし頭では分かっていても、なかなかうまく行かないのが人情というものでもある。
だから夫婦喧嘩は起こるし、社会問題も起こるし、さらに広げると国家間の対立も起こってしまうのかもしれない。
「効率よくお金を稼ぐ」ことに「忙しい」現代の人々は、さらに他人の身になって考えることが難しくなっている。
最近の社会問題や友人知人の身近な問題を考えると、「お金」、「効率」、「損得勘定」、「刷り込まれた常識」によって起こっていると感じることが多々ある。
効率的に利益を産み出すシステムが重要視される考え方、人の命よりもお金が優先される社会、近隣諸国に対して差別的な見方をしても何も感じない社会、今自分が得をすれば他はどうなってもよいという考え方など、先ほど挙げた4つのキーワードから来ていると思う。
でもやっぱりこんな社会ではこの先成り立っていかないし、こんな社会で生きていても楽しくない。
みんな楽しく、仲良く暮らしたいと願う人がたくさんいるのではないだろうか。
じゃあ、どうしたらいいのだろう?
先ほど挙げた今の社会の問題の逆を考えればいいのではないかと思う。
もちろん、人それぞれ考え方や優先されることは違うけど、それでもやはり「効率」や「利益(お金)」よりも「自分を含め生き物の命」や「環境」を優先する考え方に少しずつ変えていかないといけないのではないか。
そもそも「いい環境」がないと自分自身が生きていけないわけだし。
「差別」や「偏見」や「今までの常識」という古い考え方から、「ニュートラル」、「バランス」という見方に少しずつ変えていくことも必要だと思う。
「パラダイムシフト」という言葉があって、歴史を見ても社会の変革が起こる時は、この「パラダイムシフト」が起こっているのだけど、
現代社会の行き詰まりを解決するには個々人がそれぞれ「パラダイムシフト」をしていかないといけないのではないかと、最近の色んな問題を見ると考えてしまう。
「ソメイヨシノもいいけど、山桜もきれいだよね」っていう社会が普通になればいいなあと、満開のソメイヨシノを観て思う今日この頃でした。
それは人だけでなく、動物や植物同様だ。
正確には、2月あたりからモゾモゾと始まっている。
タチツボスミレやオオイヌノフクリなどの可憐な花、タンポポ、梅の花などが咲き始め春の始まりを知らせてくれる。
イノシシも裏の山でガサガサ活動を開始した。
地面を見ると、何かが土から出て来たような穴がチラホラ見られる。
モグラかな、ヘビかな。
ウグイスの子どもが鳴き声の練習をし始め、いよいよ春も近いなと感じてくる。
暖かくなって気持ちがいいなあと思う一方で、どこからともなく虫も姿を現す。
山桜がソメイヨシノよりも早く咲き、ああもう春なんだなあと思ったときにはもうすでに薪ストーブの出番が少なくなっていた。
自然界には(当然だけど)多種多様な生き物が生きている。
それぞれが自分達の種(しゅ)の保存を目指し、食べたり食べられたり、種の領域を浸食したりされたりして微妙なバランスを保ちながら一生懸命生きている。
私が住むこの集落では、圧倒的多数で人以外の生き物がこのようにして住んでいる。
この集落では人間がマイノリティと言えるのではないか。
我々は自分が住むこの土地を見えない線で線引きし、ここからここまでは「私の土地」と決め、固定資産税を払って土地を「所有する権利」を誰かから認めてもらっている。
当然ながら、動植物(微生物を含め)は、そんなことおかまいなしに「私の土地」に入ってくる。
例えば、イノシシが私の所有する土地に入ってきて土を掘り起こし荒らしたとする。
人間から見れば、イノシシは作物や土地を荒らす「害獣」となる。
でもイノシシからしたら、そんなことは関係なく食料を求めて活動しているだけなのだ。
どっちも言い分はあるし、どちらも正しい。
それは人が脳で創った善悪の価値で判断するものではない。
起こった出来事は、出来事としてあるだけで、「良い悪い」を判断するのは結局、脳で抽象概念をつくり出すことのできる人間でしかない。
私たちはつい、一方的な価値基準から物事を見てしまう。
特に人間にとって都合のよい価値から見てしまう傾向にある。
その価値基準の多くは、今まで刷り込まれた常識や固定観念や偏見、損得勘定から来ている。
特に最近では、「効率」、「お金」というよりとても人間的な基準がより重要視されているのではないかと個人的には感じている。
街では人工的な物に囲まれ、人間に都合の良い動植物以外はいない環境ではそうなってしまうのも無理のない話だと思う。
その反面、人間は他の物の気持ちを想像して、その物になって考えることのできる生き物である。
物語や映画を観て、主人公の気持ちになり、自分をその主人公に置き換えることで感動することができる。
逆に言えば、物語の主人公に感情移入できないと、感動することはできない。
同時に物語を作る人は、(必ずしも人間ではない)物や生き物の気持ちになって架空の話を創造することができる。
アイヌのユーカラ、昔話など古くから多くの物語に見ることができる。
「思いやり」や「お互い様」といった言葉からも、人間は他人(または他の生き物)の身になって考えることができるということを表している。
現代風に難しく言い換えれば、「多様な価値観を認め、対話によって問題解決をしていこう」ということなのかもしれない。
しかし頭では分かっていても、なかなかうまく行かないのが人情というものでもある。
だから夫婦喧嘩は起こるし、社会問題も起こるし、さらに広げると国家間の対立も起こってしまうのかもしれない。
「効率よくお金を稼ぐ」ことに「忙しい」現代の人々は、さらに他人の身になって考えることが難しくなっている。
最近の社会問題や友人知人の身近な問題を考えると、「お金」、「効率」、「損得勘定」、「刷り込まれた常識」によって起こっていると感じることが多々ある。
効率的に利益を産み出すシステムが重要視される考え方、人の命よりもお金が優先される社会、近隣諸国に対して差別的な見方をしても何も感じない社会、今自分が得をすれば他はどうなってもよいという考え方など、先ほど挙げた4つのキーワードから来ていると思う。
でもやっぱりこんな社会ではこの先成り立っていかないし、こんな社会で生きていても楽しくない。
みんな楽しく、仲良く暮らしたいと願う人がたくさんいるのではないだろうか。
じゃあ、どうしたらいいのだろう?
先ほど挙げた今の社会の問題の逆を考えればいいのではないかと思う。
もちろん、人それぞれ考え方や優先されることは違うけど、それでもやはり「効率」や「利益(お金)」よりも「自分を含め生き物の命」や「環境」を優先する考え方に少しずつ変えていかないといけないのではないか。
そもそも「いい環境」がないと自分自身が生きていけないわけだし。
「差別」や「偏見」や「今までの常識」という古い考え方から、「ニュートラル」、「バランス」という見方に少しずつ変えていくことも必要だと思う。
「パラダイムシフト」という言葉があって、歴史を見ても社会の変革が起こる時は、この「パラダイムシフト」が起こっているのだけど、
現代社会の行き詰まりを解決するには個々人がそれぞれ「パラダイムシフト」をしていかないといけないのではないかと、最近の色んな問題を見ると考えてしまう。
「ソメイヨシノもいいけど、山桜もきれいだよね」っていう社会が普通になればいいなあと、満開のソメイヨシノを観て思う今日この頃でした。
2015年2月24日火曜日
小屋作りスタート
友人のハギオ氏の協力のもと、ついに小屋作りが始まりました。
構想はずっとあって去年の秋から始める予定だったのですが、
日々やらなくてはならないこと(木を切ったりコーヒー豆を焙煎したり)に忙殺され中々始まらないことを見かねたハギオさんが
「俺が手伝うから」とのことで小屋作りを始めてしまうことにしました。
この写真の斜面と上の段に4畳ほどの小さな小屋を建てる予定です。
まずは斜面を切り崩し平らな場所を作り、石垣を築いていきます。そこを建物の半地下にして、薪や外で使う道具の置き場所にします。
斜面を全て平らにするのではなく、地形を生かすことで労力も最小限にできるという設計です。
しかも石垣に使う石は敷地内で集められる物です(当然タダ!)。
大きな石は作ることはできないので、大切な資源なんですよねえ。
ユンボはなどは使わず、全て人力での作業です。
何が大変かと言うと、斜面を掘るよりも大きな石を運んで来ることが大変でした。
まずは角を決めてちょうど四角になっている大きな石を置いてみます。
掘っては石を置きを繰り返します。
ハギオさん登場!
石を運んだり、土を削ったり、2人になると作業が2倍以上にはかどります。
しかも色々できるハギオさんなのでおおいに助かりました。
ハギオさんありがとう!
石垣を2段目まで築いたところ。
一番高い所で3段目まで石を積みました。
ここまでやるのに2人で1日くらいでした。
今日でも田舎では石垣をいたる所で見ることができます。
昔は全て人力でやっていたと思うのですが、
あんな大きな石を(この写真の倍以上もある石)どのように運んで積んでいったのだろうと驚いています。
2015年2月20日金曜日
パーマカルチャーについて その1
Fryers forest in Australia "Permacultural Eco-Village" |
英語で書くとPermacultureです。
permanent(永久の)とagriculture(農業)またはculture(文化)を合体させたオーストラリア生まれの造語で、1970年代に当時タスマニア大学の教授であったビル・モリソンとその生徒であったデビット・ホルムグレンによって作られた学問体系と言われています。
パーマカルチャーの定義は下の本から引用します。
『パーマカルチャー −農的暮らしの永久デザイン−』1993 ビル・モリソン/レニー・ミア・スレイ著 田口恒夫/小祝慶子訳 農文 p. 7
パーマカルチャーというのは、人間にとっての恒久的持続可能な環境をつくり出すためのデザイン体系のことである。パーマカルチャーという語そのものは、パーマネント(permanent 永久の)とアグリカルチャー(agriculture 農業)をつづめたものであるが、同時にパーマネントとカルチャー(文化)の縮約形でもある。文化というものは、永続可能な農業と倫理的な土地利用という基盤なしには長くは続きえないものだからである。これだけではあまりピンと来ないかもしれませんが、かつての日本の田舎で見られた「里山」や、現在では「持続可能な循環型社会」などと言った感じを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。
パーマカルチャーでは、「恒久的持続可能な環境をつくり出すためのデザイン」をするために多くの学問分野の知識を動員しています。
生態学、環境学、気象学、建築学、農学、地形学、電気に関することなどなど…。
さらには、自分の住む土地だけでなく、地域や社会のことも視野に入れて持続可能な環境をデザインしていきます。
もちろん全ての分野でエキスパートになる必要はないと思いますが、ある程度の知識とそれらを横断的に使いこなす必要は出てくると思います。
ある意味、「百姓」的だし、里山に近いものがありそうですね。
自然の力を利用しつつ持続可能な生活を作り上げていくという点では、パーマカルチャーも里山文化も目的は同じですが、パーマカルチャーではそのような生活をあらかじめ「デザインをする」という点で少し異なるかもしれません。
日本の里山は、限られた自然環境の中で自分達が永続的に暮らしていけるよう長い年月と人々の知恵を集めて洗練されていった生活スタイルです。
長い間パーマカルチャー的な生活をしていった「結果」とも言えます。
化石燃料の台頭と高度成長の影響で里山が失われつつあると言われて久しい現在では、もし我々のような若い世代(30代)が里山文化を継承したいと考えた場合、里山について本で読むか、まだ里山文化が残っている場所に行って体験するか、あるいはまだご存命のご老人に教えていただきながら自分が実践していくという方法が考えられると思います(他にもあるかもしれませんが)。
では、日本には里山文化というものがあるのに、あえてオーストラリア生まれのパーマカルチャーを学ぶ意味はどこにあるのでしょうか?
先ほども述べたように、我々の世代で特に都会から田舎に移住して来た場合(いわゆる「Iターン」)、どのようにしたら周囲の自然環境になるべく負荷をかけずに、自給自足的な生活ができるかと考えると、何も知識も経験もない中で生活していくのは難しいと思います。
そこで指標になるのが、パーマカルチャーというものだと私は考えています。
どのような土地を選べば良いか、それをどのように利用したらいいか、周囲の地域の状況はどうかなど、あらかじめデザインできれば(想像できれば)、田舎暮らしもしやすいのではないでしょうか。
私のような小柄で細身で眼鏡の都会のもやしっ子みたいな人間が(もやしは大好きですよ^^)、いきなり志しの高さだけで「田舎暮らしをする!」なんて言い出したら周囲の人は止めるでしょう。
まあ、実際止められもしましたけど(笑)。
ただ、私自身はオーストラリアでパーマカルチャーを3カ月半ほど学び、日本でも1年近くかけていくつかの農家さんの所で研修をし、さらに金銭的な準備もしてからここ岡山に来ました。
ここ草が生まれる農園も基本的にはパーマカルチャーを参考に周囲の環境をデザインしつつ勉強しつつ、暮らしています。
パーマカルチャーについては、まだまだたくさんありますので、またシリーズでブログに投稿したいと思います。
fryers forestのコミュニティハウスにて 中央後ろにいる眼鏡の若者が私 |
2015年2月17日火曜日
工房のロフト作り
段々と春の足音が聞こえる今日この頃ですが、ここ岡山では早くも空中に様々な微粒が漂っています。
花粉、黄砂、PM2.5(この言い方で正しい?)などなど。
「空気がきれい」が自慢の田舎でも容赦なく降り注ぎます。
数日前からなんか咳が出るなあ、風邪かなあ、なんて思ってたらそういうことだったのね。
そんな時はぬるい三年番茶に塩を入れて喉と鼻のうがいをして対応します。
さて、セルフビルドの草が生まれる工房の菓子工房にロフトを作りました。
前々から作ろうと思っていたのですが、材料もあるし、ちょっと作らないといけない事情もあったので急遽作ってしまいました。
コンポストトイレを作った際に余分に買ってしまった2×4の角材を利用します。
まずは「墨付け」。
「墨付け八年」と昔の大工さんが言ってたように、
これがちゃんとしていないと後が全て狂ってしまうんですよね。
とはいえ、日曜大工レベルの私にはそこまでの精度は難しいです(そもそも8年もやってないし^^)。
1寸(30.3mm)×1寸をカットします。
あの「一寸法師」の一寸です。
写真奥の梁(はり)と手前の梁の間にロフトを作ります。
ノミやノコギリなど手持ちの道具を駆使して、先ほどの床の土台となる角材(大引)が入るように梁に穴を彫っていきます(これをホゾ穴と言います)。
見えづらいかもしれないので、別角度で。
本当はもっと抜けにくいホゾもあるのですが、難易度が上がる分時間もかかるし、
そこまでしなくても大丈夫だろうということで、四角いホゾ穴です。
15寸(455mm)間隔で大引を入れていきます。
よーく見ると少しすき間が空いているのはご愛嬌ということで。
床の縦がの長さが6尺(約1820mm)になるようにするため、5本の大引を入れました。
この5本の大引を付けるために10個のホゾ穴をひたすら彫り続けたましたよ〜!
後は床となる杉板(相じゃくりはなしで)を並べていきます。
そんなこんなで完成です。
細かい部分を見るとけっこういい加減ですが、本職の大工さんではないので十分な出来と言えるのではないでしょうか。
材料費は約5,000円くらいかな。
2人で1日仕事とはいえ、5,000円でロフトが作れちゃうなんて安いですよね?
技術的には何も難しいことはしてないし、素人レベルで必要なのは「やる気」と「根気」だと思います。
こういうことをしてると、器用だと思われがちですが、まったくそんなことはなく、どちらかと言うと不器用な部類に入ると思ってます。
小さい頃から図画工作は苦手だったし、簡単なプラモデルなんかでも完成させたためしはないし、塗り絵なんか絶対はみ出すし、そもそも大雑把な性格なんですよね。
まあ、こんな私でも小屋が作れてしまうので、まずは机や棚でも挑戦してみることが大事ではないかと思います。
花粉、黄砂、PM2.5(この言い方で正しい?)などなど。
「空気がきれい」が自慢の田舎でも容赦なく降り注ぎます。
数日前からなんか咳が出るなあ、風邪かなあ、なんて思ってたらそういうことだったのね。
そんな時はぬるい三年番茶に塩を入れて喉と鼻のうがいをして対応します。
さて、セルフビルドの草が生まれる工房の菓子工房にロフトを作りました。
前々から作ろうと思っていたのですが、材料もあるし、ちょっと作らないといけない事情もあったので急遽作ってしまいました。
コンポストトイレを作った際に余分に買ってしまった2×4の角材を利用します。
まずは「墨付け」。
「墨付け八年」と昔の大工さんが言ってたように、
これがちゃんとしていないと後が全て狂ってしまうんですよね。
とはいえ、日曜大工レベルの私にはそこまでの精度は難しいです(そもそも8年もやってないし^^)。
1寸(30.3mm)×1寸をカットします。
あの「一寸法師」の一寸です。
写真奥の梁(はり)と手前の梁の間にロフトを作ります。
ノミやノコギリなど手持ちの道具を駆使して、先ほどの床の土台となる角材(大引)が入るように梁に穴を彫っていきます(これをホゾ穴と言います)。
見えづらいかもしれないので、別角度で。
本当はもっと抜けにくいホゾもあるのですが、難易度が上がる分時間もかかるし、
そこまでしなくても大丈夫だろうということで、四角いホゾ穴です。
15寸(455mm)間隔で大引を入れていきます。
よーく見ると少しすき間が空いているのはご愛嬌ということで。
床の縦がの長さが6尺(約1820mm)になるようにするため、5本の大引を入れました。
この5本の大引を付けるために10個のホゾ穴をひたすら彫り続けたましたよ〜!
そんなこんなで完成です。
before
after
細かい部分を見るとけっこういい加減ですが、本職の大工さんではないので十分な出来と言えるのではないでしょうか。
材料費は約5,000円くらいかな。
2人で1日仕事とはいえ、5,000円でロフトが作れちゃうなんて安いですよね?
技術的には何も難しいことはしてないし、素人レベルで必要なのは「やる気」と「根気」だと思います。
こういうことをしてると、器用だと思われがちですが、まったくそんなことはなく、どちらかと言うと不器用な部類に入ると思ってます。
小さい頃から図画工作は苦手だったし、簡単なプラモデルなんかでも完成させたためしはないし、塗り絵なんか絶対はみ出すし、そもそも大雑把な性格なんですよね。
まあ、こんな私でも小屋が作れてしまうので、まずは机や棚でも挑戦してみることが大事ではないかと思います。
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