2015年4月17日金曜日

本屋に行くとなんとなく今の流れって見えますよね

私は本屋が好きで、どこかに出かけた際に時間がある時は本屋で過ごすことがあります。
インターネットと違い、本屋では雑誌など特に今の時代の流れを俯瞰できると思います。
雑誌コーナーを眺めていると、最近でも料理もファッションも建築物も自然の素材を使っている物を特集していると個人的には感じます。
大量生産の人工的な物や場所には飽き飽きして、古い物や手づくりの物、本物の素材で作られた物を欲しているのだと思います。

2000年代後半から現在進行形で10年近く続く自然志向・回帰への流れは一過性のブームではなく、もはや価値観がそちらの方向へ向いていることを示しているのではないでしょうか?

バブルをほとんど経験していな1980年代生まれ以降の世代にとっては、「大学を出て安定した会社で朝から晩まで働き、安定した給料をもらい、マイホームやマイカーをローンで購入することが幸せ」という夢はもう見ることが難しいということは共通の認識としてあると思います。
実際にアンケートを取ったわけではないですが、なんとなく実感としてあると感じています。

「ワークライフバランス」という言葉も、もう何年も前から言われているし、会社を辞めて独立したり、フリーランスで「自分らしく働きたい」と思う人もどんどん増えています。
都会から田舎に移り住んで「半農半X」という形で暮らす人もますます増加傾向にあるでしょう。

これらの流れは「パラダイムシフト」と言えませんか?

日本に限らず、人類の歴史を見ても、人々の価値観が変わることで世の中の情勢が変わっていくことが多々ありました。
貴族社会から武家社会へ、戦国時代から江戸時代へ、江戸時代から明治以降の時代へ。
人々の価値観が徐々に変わっていくことで、最終的にはそれまでの為政者が変わってしまうという現象がありました。
その際に大抵は古い価値観や既得権にある勢力は最後までこの流れに抵抗して、一般市民を巻き込んで消滅していくということが歴史上ずっと起こってきたことでした。

ここまで読んで「もしかして?」と思った方もいらっしゃると思いますが、現政権もこの大きな価値観の変化の流れについて行ってないのではないかと思いませんか?
辺野古や原発への対応や、経済成長優先の政策、戦争経済の推進、憲法改正、などなど…
ちょっと我々若い世代感覚には合わない感じがしてしまうんですよねえ。
そこじゃないんだよなあ…って。

現政権が時代錯誤の感覚で政治をやっているから、沖縄では軋轢が生まれているし、政治に関心がなくなり選挙でも投票率は下がる一方になるのではないかと思います。
でも大きな流れで見ると、ここまで来たら世間の人の価値観はますます変わって行くし、まだ古い価値観の中でいる人も変わらざるを得ない状況になるのではないでしょうか。
ファッションを見てもそうですが、最初に流行に敏感な人が新しいスタイルのファッションを始めて、そこそこ流行を追う人たちに広まり、最後にはまったく流行に興味がなくても、お店にはその時代に合った服しか売っていないので、なんとなくみんな流行の物を着ている(その頃にはすでに流行遅れになっているかもしれませんが^^)という流れになっています。

今は時代の大きな変革期にあると思うので多少の混乱はしょうがないですが、より大多数の人が価値観が変わっていけば、勝手に時代は変わるのではないかと私は楽観視しています。
幸いなことに、今はインターネットでたくさんの情報が得られウソやごまかしが効かなくなっているので(テレビ局に圧力をかけたって、みんなテレビの多くはやらせだって気づいているし^^)、今行っているような政治のやり方は行き詰まると思います。


とは言っても、混乱は嫌だし、平和に変革して欲しいと願っているので自分はブログやいろんな人と話すことを通じて多くの人に田舎暮らしの良さみたいなのを伝えて行きたいなあと思っています。

2015年4月3日金曜日

春うららで思うこと

春になり暖かくなってくると、集落のみなさんも活動を始める。
それは人だけでなく、動物や植物同様だ。
正確には、2月あたりからモゾモゾと始まっている。

タチツボスミレやオオイヌノフクリなどの可憐な花、タンポポ、梅の花などが咲き始め春の始まりを知らせてくれる。
イノシシも裏の山でガサガサ活動を開始した。
地面を見ると、何かが土から出て来たような穴がチラホラ見られる。
モグラかな、ヘビかな。
ウグイスの子どもが鳴き声の練習をし始め、いよいよ春も近いなと感じてくる。
暖かくなって気持ちがいいなあと思う一方で、どこからともなく虫も姿を現す。
山桜がソメイヨシノよりも早く咲き、ああもう春なんだなあと思ったときにはもうすでに薪ストーブの出番が少なくなっていた。

自然界には(当然だけど)多種多様な生き物が生きている。
それぞれが自分達の種(しゅ)の保存を目指し、食べたり食べられたり、種の領域を浸食したりされたりして微妙なバランスを保ちながら一生懸命生きている。

私が住むこの集落では、圧倒的多数で人以外の生き物がこのようにして住んでいる。
この集落では人間がマイノリティと言えるのではないか。

我々は自分が住むこの土地を見えない線で線引きし、ここからここまでは「私の土地」と決め、固定資産税を払って土地を「所有する権利」を誰かから認めてもらっている。
当然ながら、動植物(微生物を含め)は、そんなことおかまいなしに「私の土地」に入ってくる。

例えば、イノシシが私の所有する土地に入ってきて土を掘り起こし荒らしたとする。
人間から見れば、イノシシは作物や土地を荒らす「害獣」となる。
でもイノシシからしたら、そんなことは関係なく食料を求めて活動しているだけなのだ。
どっちも言い分はあるし、どちらも正しい。
それは人が脳で創った善悪の価値で判断するものではない。
起こった出来事は、出来事としてあるだけで、「良い悪い」を判断するのは結局、脳で抽象概念をつくり出すことのできる人間でしかない。

私たちはつい、一方的な価値基準から物事を見てしまう。
特に人間にとって都合のよい価値から見てしまう傾向にある。
その価値基準の多くは、今まで刷り込まれた常識や固定観念や偏見、損得勘定から来ている。
特に最近では、「効率」、「お金」というよりとても人間的な基準がより重要視されているのではないかと個人的には感じている。
街では人工的な物に囲まれ、人間に都合の良い動植物以外はいない環境ではそうなってしまうのも無理のない話だと思う。

その反面、人間は他の物の気持ちを想像して、その物になって考えることのできる生き物である。
物語や映画を観て、主人公の気持ちになり、自分をその主人公に置き換えることで感動することができる。
逆に言えば、物語の主人公に感情移入できないと、感動することはできない。

同時に物語を作る人は、(必ずしも人間ではない)物や生き物の気持ちになって架空の話を創造することができる。
アイヌのユーカラ、昔話など古くから多くの物語に見ることができる。

「思いやり」や「お互い様」といった言葉からも、人間は他人(または他の生き物)の身になって考えることができるということを表している。
現代風に難しく言い換えれば、「多様な価値観を認め、対話によって問題解決をしていこう」ということなのかもしれない。
しかし頭では分かっていても、なかなかうまく行かないのが人情というものでもある。
だから夫婦喧嘩は起こるし、社会問題も起こるし、さらに広げると国家間の対立も起こってしまうのかもしれない。

「効率よくお金を稼ぐ」ことに「忙しい」現代の人々は、さらに他人の身になって考えることが難しくなっている。

最近の社会問題や友人知人の身近な問題を考えると、「お金」、「効率」、「損得勘定」、「刷り込まれた常識」によって起こっていると感じることが多々ある。

効率的に利益を産み出すシステムが重要視される考え方、人の命よりもお金が優先される社会、近隣諸国に対して差別的な見方をしても何も感じない社会、今自分が得をすれば他はどうなってもよいという考え方など、先ほど挙げた4つのキーワードから来ていると思う。

でもやっぱりこんな社会ではこの先成り立っていかないし、こんな社会で生きていても楽しくない。
みんな楽しく、仲良く暮らしたいと願う人がたくさんいるのではないだろうか。

じゃあ、どうしたらいいのだろう?
先ほど挙げた今の社会の問題の逆を考えればいいのではないかと思う。
もちろん、人それぞれ考え方や優先されることは違うけど、それでもやはり「効率」や「利益(お金)」よりも「自分を含め生き物の命」や「環境」を優先する考え方に少しずつ変えていかないといけないのではないか。
そもそも「いい環境」がないと自分自身が生きていけないわけだし。
「差別」や「偏見」や「今までの常識」という古い考え方から、「ニュートラル」、「バランス」という見方に少しずつ変えていくことも必要だと思う。

「パラダイムシフト」という言葉があって、歴史を見ても社会の変革が起こる時は、この「パラダイムシフト」が起こっているのだけど、
現代社会の行き詰まりを解決するには個々人がそれぞれ「パラダイムシフト」をしていかないといけないのではないかと、最近の色んな問題を見ると考えてしまう。

「ソメイヨシノもいいけど、山桜もきれいだよね」っていう社会が普通になればいいなあと、満開のソメイヨシノを観て思う今日この頃でした。