2015年4月3日金曜日

春うららで思うこと

春になり暖かくなってくると、集落のみなさんも活動を始める。
それは人だけでなく、動物や植物同様だ。
正確には、2月あたりからモゾモゾと始まっている。

タチツボスミレやオオイヌノフクリなどの可憐な花、タンポポ、梅の花などが咲き始め春の始まりを知らせてくれる。
イノシシも裏の山でガサガサ活動を開始した。
地面を見ると、何かが土から出て来たような穴がチラホラ見られる。
モグラかな、ヘビかな。
ウグイスの子どもが鳴き声の練習をし始め、いよいよ春も近いなと感じてくる。
暖かくなって気持ちがいいなあと思う一方で、どこからともなく虫も姿を現す。
山桜がソメイヨシノよりも早く咲き、ああもう春なんだなあと思ったときにはもうすでに薪ストーブの出番が少なくなっていた。

自然界には(当然だけど)多種多様な生き物が生きている。
それぞれが自分達の種(しゅ)の保存を目指し、食べたり食べられたり、種の領域を浸食したりされたりして微妙なバランスを保ちながら一生懸命生きている。

私が住むこの集落では、圧倒的多数で人以外の生き物がこのようにして住んでいる。
この集落では人間がマイノリティと言えるのではないか。

我々は自分が住むこの土地を見えない線で線引きし、ここからここまでは「私の土地」と決め、固定資産税を払って土地を「所有する権利」を誰かから認めてもらっている。
当然ながら、動植物(微生物を含め)は、そんなことおかまいなしに「私の土地」に入ってくる。

例えば、イノシシが私の所有する土地に入ってきて土を掘り起こし荒らしたとする。
人間から見れば、イノシシは作物や土地を荒らす「害獣」となる。
でもイノシシからしたら、そんなことは関係なく食料を求めて活動しているだけなのだ。
どっちも言い分はあるし、どちらも正しい。
それは人が脳で創った善悪の価値で判断するものではない。
起こった出来事は、出来事としてあるだけで、「良い悪い」を判断するのは結局、脳で抽象概念をつくり出すことのできる人間でしかない。

私たちはつい、一方的な価値基準から物事を見てしまう。
特に人間にとって都合のよい価値から見てしまう傾向にある。
その価値基準の多くは、今まで刷り込まれた常識や固定観念や偏見、損得勘定から来ている。
特に最近では、「効率」、「お金」というよりとても人間的な基準がより重要視されているのではないかと個人的には感じている。
街では人工的な物に囲まれ、人間に都合の良い動植物以外はいない環境ではそうなってしまうのも無理のない話だと思う。

その反面、人間は他の物の気持ちを想像して、その物になって考えることのできる生き物である。
物語や映画を観て、主人公の気持ちになり、自分をその主人公に置き換えることで感動することができる。
逆に言えば、物語の主人公に感情移入できないと、感動することはできない。

同時に物語を作る人は、(必ずしも人間ではない)物や生き物の気持ちになって架空の話を創造することができる。
アイヌのユーカラ、昔話など古くから多くの物語に見ることができる。

「思いやり」や「お互い様」といった言葉からも、人間は他人(または他の生き物)の身になって考えることができるということを表している。
現代風に難しく言い換えれば、「多様な価値観を認め、対話によって問題解決をしていこう」ということなのかもしれない。
しかし頭では分かっていても、なかなかうまく行かないのが人情というものでもある。
だから夫婦喧嘩は起こるし、社会問題も起こるし、さらに広げると国家間の対立も起こってしまうのかもしれない。

「効率よくお金を稼ぐ」ことに「忙しい」現代の人々は、さらに他人の身になって考えることが難しくなっている。

最近の社会問題や友人知人の身近な問題を考えると、「お金」、「効率」、「損得勘定」、「刷り込まれた常識」によって起こっていると感じることが多々ある。

効率的に利益を産み出すシステムが重要視される考え方、人の命よりもお金が優先される社会、近隣諸国に対して差別的な見方をしても何も感じない社会、今自分が得をすれば他はどうなってもよいという考え方など、先ほど挙げた4つのキーワードから来ていると思う。

でもやっぱりこんな社会ではこの先成り立っていかないし、こんな社会で生きていても楽しくない。
みんな楽しく、仲良く暮らしたいと願う人がたくさんいるのではないだろうか。

じゃあ、どうしたらいいのだろう?
先ほど挙げた今の社会の問題の逆を考えればいいのではないかと思う。
もちろん、人それぞれ考え方や優先されることは違うけど、それでもやはり「効率」や「利益(お金)」よりも「自分を含め生き物の命」や「環境」を優先する考え方に少しずつ変えていかないといけないのではないか。
そもそも「いい環境」がないと自分自身が生きていけないわけだし。
「差別」や「偏見」や「今までの常識」という古い考え方から、「ニュートラル」、「バランス」という見方に少しずつ変えていくことも必要だと思う。

「パラダイムシフト」という言葉があって、歴史を見ても社会の変革が起こる時は、この「パラダイムシフト」が起こっているのだけど、
現代社会の行き詰まりを解決するには個々人がそれぞれ「パラダイムシフト」をしていかないといけないのではないかと、最近の色んな問題を見ると考えてしまう。

「ソメイヨシノもいいけど、山桜もきれいだよね」っていう社会が普通になればいいなあと、満開のソメイヨシノを観て思う今日この頃でした。

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