2015年7月20日月曜日

ルールの飽和状態

サッカーの「オフサイド」というルールはご存知でしょうか?
サッカーをやったことがある、またはかなりのサッカー好きならこのルールについて理解ができるかと思いますが、
それ以外の方で「オフサイドとはこういうルールだ」と正確に説明するのは難しいのではないでしょうか?

世の中には、改正に改正を重ねたルールが「そもそもどんな目的でそのルールを作ったんだっけ?」というものが多々存在します。
サッカーの「オフサイド」というルールを最初に作った目的は、敵チームのゴール前に味方がずっと待っててそこにボールをポーンと蹴って、簡単にゴールを入れてしまうのはずるいし、スポーツとしても面白くないよね、ということで作ったのだと思います。
それが改正を重ねるうちに、例えば「出たボールに関与していない選手は、オフサイドのポジションにいてもオフサイドにはならない」というルールをオフサイドルールに加えました。
ルールのためのルールを作ることで、そのルールが複雑になり、専門外の人には分かりにくくなっていくことのいい見本かと思います。

一方で、世の中にはルール違反をしても罰せられなければ、その中で何をしてもいいんだという考え方や雰囲気も蔓延しているような感じがします。
再びサッカーに例えると、サッカーには手を使ってはいけないというルールがあります。サッカーを一回も見たことがないという方以外は当然のルールだろうと思います。
しかし、手を使ってゴールをしても、審判に見つからなければルール違反にならない、といういう考えで、実際にそういう選手が手を使ってゴールを決めて喜んでいたらどう思うでしょうか?

それって確かにルール違反ではないけど、それをやったらサッカーというスポーツとして面白くないよね、と思う方が多いのではないでしょうか。
まあ、個人的にはそんな常識外のことをすることは面白いと思ってしまう方なんですが、
でもやはりみんながそんなことをしていたらサッカーというスポーツ自体が成り立たなくなってしまうと考えます。

さて、日本に限らず多くの国家というものは、法治国家であり、国家もその国に住む国民も同じ法の下に法を守って日々生活をしています。
憲法以下さまざまな法律は、最初に作られた時には何か目的を持って作られたのでしょう。
多くの法は「社会が良くなるように、うまく回るように」だったり、「犯罪を取り締まるため」、だったり、「誰かが一方的に不自由や不利益をこうむらないように」などのために作られたのではないでしょうか。

それが法治国家という概念ができて以来、法律をどんどん作り、どんどん改正することで「法が網の目のように」なってがんじがらめになってきてしまったのではないでしょうか。

ルールのためのルールを作り、法律に違反さえしなければその中でどんなお金儲けをしても許される社会、お金儲けをするためなら合法的な手続きで都合良く法律を変えていく社会…
ルールの飽和状態になった社会では、もはや何のためのルールなのかわかならくなり、モラルや道徳心として例えルールの中に納まっていても、それをやったらだめでしょうということを平気でやり出しているように感じます。

今後ますますルールが飽和状態になってきた社会では、何が起こるのでしょうか?
自然界においては飽和状態になれば爆発し、収縮に向かうのが常ですが…
70年前もそんなことが起こりました。


今回の安保法制関連のことも「オフサイド」なみに複雑になり、専門家やよっぽど勉強している人以外は中身について完全に理解するのは難しいのではないかと思います。
それでも世論調査など各種調査において、おおむね2/3以上の人たちがこの法案に反対しているのを見ると、
法案の中身がどうという細かい話より、「手続き上は確かに合法かもしれないけど、そんなやり方が許されるのか?」というモラルだったりルールを守るという道徳心(?)みたいなところから不安を持つのだと私は考えています。

私たち庶民はルールを守って生活するのが当たり前だと思っていたら、ルールを作る人たちが合法的かもしれないけど、解釈でもってルールを変更したら普通に考えたらおかしな話だと思います。
「万引きは犯罪である」または「万引きはしてはいけないでしょう、当然」というモラルから、
「万引きをしても捕まらなかったら許される」あるいは「万引きして捕まっても、裁判で無罪を勝ち取れば問題ない」というモラルになっても世間が許してくれるという社会になってしまうようでなりません。
そして、現にそうなりつつあるのではないでしょうか。
なにせ、国のルールを作る人たちが率先して後者のモラルになってしまっているのだから。

安保法制から今話題の新国立競技場まで、現代の日本社会(多くの先進国も)の問題の根幹が目に見える形で噴き出してきているのだと思います。
木や野菜でも、地中の根っこが腐ると地上の枝葉も影響を受けて腐ってくるのと同じように。
逆に、根がしっかりしていれば、枝や葉の一部が悪くなっても生き延びることはできるのですよね。

私たち庶民はその腐った根っこの部分の修復からやっていかないといけないのではないでしょうか?
上澄みだけすくって取り替えてもまた同じ問題が起こるし、飽和して爆発して、収縮しておしまいということになりかねませんよねえ…

2015年7月14日火曜日

お店を始めます

前回の投稿から間が空きましたが、
すっかり季節は夏ですね。

この間、紅茶作りから畑仕事と新しいお店の準備などなど盛り沢山にやることが重なりこのブログの更新も滞ってしまいました。

さて、久々の更新で宣伝をするのも申し訳ないですが、倉敷市で新しくお店を開くこととなりました。
お店の名前は『うり坊舎』と言います。
水曜日と日曜日のみの営業です。

本がたくさん置いてあるので、本を読みに来るだけでもけっこうです。

うちで焙煎したコーヒー豆や焼き菓子、自然農で育てた野菜などを販売する予定です。

うり坊舎の内容については、お店のブログを作りましたので、そちらをご覧いただければと思います。

うり坊舎のブログuribousha.exblog.jp

2015年4月17日金曜日

本屋に行くとなんとなく今の流れって見えますよね

私は本屋が好きで、どこかに出かけた際に時間がある時は本屋で過ごすことがあります。
インターネットと違い、本屋では雑誌など特に今の時代の流れを俯瞰できると思います。
雑誌コーナーを眺めていると、最近でも料理もファッションも建築物も自然の素材を使っている物を特集していると個人的には感じます。
大量生産の人工的な物や場所には飽き飽きして、古い物や手づくりの物、本物の素材で作られた物を欲しているのだと思います。

2000年代後半から現在進行形で10年近く続く自然志向・回帰への流れは一過性のブームではなく、もはや価値観がそちらの方向へ向いていることを示しているのではないでしょうか?

バブルをほとんど経験していな1980年代生まれ以降の世代にとっては、「大学を出て安定した会社で朝から晩まで働き、安定した給料をもらい、マイホームやマイカーをローンで購入することが幸せ」という夢はもう見ることが難しいということは共通の認識としてあると思います。
実際にアンケートを取ったわけではないですが、なんとなく実感としてあると感じています。

「ワークライフバランス」という言葉も、もう何年も前から言われているし、会社を辞めて独立したり、フリーランスで「自分らしく働きたい」と思う人もどんどん増えています。
都会から田舎に移り住んで「半農半X」という形で暮らす人もますます増加傾向にあるでしょう。

これらの流れは「パラダイムシフト」と言えませんか?

日本に限らず、人類の歴史を見ても、人々の価値観が変わることで世の中の情勢が変わっていくことが多々ありました。
貴族社会から武家社会へ、戦国時代から江戸時代へ、江戸時代から明治以降の時代へ。
人々の価値観が徐々に変わっていくことで、最終的にはそれまでの為政者が変わってしまうという現象がありました。
その際に大抵は古い価値観や既得権にある勢力は最後までこの流れに抵抗して、一般市民を巻き込んで消滅していくということが歴史上ずっと起こってきたことでした。

ここまで読んで「もしかして?」と思った方もいらっしゃると思いますが、現政権もこの大きな価値観の変化の流れについて行ってないのではないかと思いませんか?
辺野古や原発への対応や、経済成長優先の政策、戦争経済の推進、憲法改正、などなど…
ちょっと我々若い世代感覚には合わない感じがしてしまうんですよねえ。
そこじゃないんだよなあ…って。

現政権が時代錯誤の感覚で政治をやっているから、沖縄では軋轢が生まれているし、政治に関心がなくなり選挙でも投票率は下がる一方になるのではないかと思います。
でも大きな流れで見ると、ここまで来たら世間の人の価値観はますます変わって行くし、まだ古い価値観の中でいる人も変わらざるを得ない状況になるのではないでしょうか。
ファッションを見てもそうですが、最初に流行に敏感な人が新しいスタイルのファッションを始めて、そこそこ流行を追う人たちに広まり、最後にはまったく流行に興味がなくても、お店にはその時代に合った服しか売っていないので、なんとなくみんな流行の物を着ている(その頃にはすでに流行遅れになっているかもしれませんが^^)という流れになっています。

今は時代の大きな変革期にあると思うので多少の混乱はしょうがないですが、より大多数の人が価値観が変わっていけば、勝手に時代は変わるのではないかと私は楽観視しています。
幸いなことに、今はインターネットでたくさんの情報が得られウソやごまかしが効かなくなっているので(テレビ局に圧力をかけたって、みんなテレビの多くはやらせだって気づいているし^^)、今行っているような政治のやり方は行き詰まると思います。


とは言っても、混乱は嫌だし、平和に変革して欲しいと願っているので自分はブログやいろんな人と話すことを通じて多くの人に田舎暮らしの良さみたいなのを伝えて行きたいなあと思っています。

2015年4月3日金曜日

春うららで思うこと

春になり暖かくなってくると、集落のみなさんも活動を始める。
それは人だけでなく、動物や植物同様だ。
正確には、2月あたりからモゾモゾと始まっている。

タチツボスミレやオオイヌノフクリなどの可憐な花、タンポポ、梅の花などが咲き始め春の始まりを知らせてくれる。
イノシシも裏の山でガサガサ活動を開始した。
地面を見ると、何かが土から出て来たような穴がチラホラ見られる。
モグラかな、ヘビかな。
ウグイスの子どもが鳴き声の練習をし始め、いよいよ春も近いなと感じてくる。
暖かくなって気持ちがいいなあと思う一方で、どこからともなく虫も姿を現す。
山桜がソメイヨシノよりも早く咲き、ああもう春なんだなあと思ったときにはもうすでに薪ストーブの出番が少なくなっていた。

自然界には(当然だけど)多種多様な生き物が生きている。
それぞれが自分達の種(しゅ)の保存を目指し、食べたり食べられたり、種の領域を浸食したりされたりして微妙なバランスを保ちながら一生懸命生きている。

私が住むこの集落では、圧倒的多数で人以外の生き物がこのようにして住んでいる。
この集落では人間がマイノリティと言えるのではないか。

我々は自分が住むこの土地を見えない線で線引きし、ここからここまでは「私の土地」と決め、固定資産税を払って土地を「所有する権利」を誰かから認めてもらっている。
当然ながら、動植物(微生物を含め)は、そんなことおかまいなしに「私の土地」に入ってくる。

例えば、イノシシが私の所有する土地に入ってきて土を掘り起こし荒らしたとする。
人間から見れば、イノシシは作物や土地を荒らす「害獣」となる。
でもイノシシからしたら、そんなことは関係なく食料を求めて活動しているだけなのだ。
どっちも言い分はあるし、どちらも正しい。
それは人が脳で創った善悪の価値で判断するものではない。
起こった出来事は、出来事としてあるだけで、「良い悪い」を判断するのは結局、脳で抽象概念をつくり出すことのできる人間でしかない。

私たちはつい、一方的な価値基準から物事を見てしまう。
特に人間にとって都合のよい価値から見てしまう傾向にある。
その価値基準の多くは、今まで刷り込まれた常識や固定観念や偏見、損得勘定から来ている。
特に最近では、「効率」、「お金」というよりとても人間的な基準がより重要視されているのではないかと個人的には感じている。
街では人工的な物に囲まれ、人間に都合の良い動植物以外はいない環境ではそうなってしまうのも無理のない話だと思う。

その反面、人間は他の物の気持ちを想像して、その物になって考えることのできる生き物である。
物語や映画を観て、主人公の気持ちになり、自分をその主人公に置き換えることで感動することができる。
逆に言えば、物語の主人公に感情移入できないと、感動することはできない。

同時に物語を作る人は、(必ずしも人間ではない)物や生き物の気持ちになって架空の話を創造することができる。
アイヌのユーカラ、昔話など古くから多くの物語に見ることができる。

「思いやり」や「お互い様」といった言葉からも、人間は他人(または他の生き物)の身になって考えることができるということを表している。
現代風に難しく言い換えれば、「多様な価値観を認め、対話によって問題解決をしていこう」ということなのかもしれない。
しかし頭では分かっていても、なかなかうまく行かないのが人情というものでもある。
だから夫婦喧嘩は起こるし、社会問題も起こるし、さらに広げると国家間の対立も起こってしまうのかもしれない。

「効率よくお金を稼ぐ」ことに「忙しい」現代の人々は、さらに他人の身になって考えることが難しくなっている。

最近の社会問題や友人知人の身近な問題を考えると、「お金」、「効率」、「損得勘定」、「刷り込まれた常識」によって起こっていると感じることが多々ある。

効率的に利益を産み出すシステムが重要視される考え方、人の命よりもお金が優先される社会、近隣諸国に対して差別的な見方をしても何も感じない社会、今自分が得をすれば他はどうなってもよいという考え方など、先ほど挙げた4つのキーワードから来ていると思う。

でもやっぱりこんな社会ではこの先成り立っていかないし、こんな社会で生きていても楽しくない。
みんな楽しく、仲良く暮らしたいと願う人がたくさんいるのではないだろうか。

じゃあ、どうしたらいいのだろう?
先ほど挙げた今の社会の問題の逆を考えればいいのではないかと思う。
もちろん、人それぞれ考え方や優先されることは違うけど、それでもやはり「効率」や「利益(お金)」よりも「自分を含め生き物の命」や「環境」を優先する考え方に少しずつ変えていかないといけないのではないか。
そもそも「いい環境」がないと自分自身が生きていけないわけだし。
「差別」や「偏見」や「今までの常識」という古い考え方から、「ニュートラル」、「バランス」という見方に少しずつ変えていくことも必要だと思う。

「パラダイムシフト」という言葉があって、歴史を見ても社会の変革が起こる時は、この「パラダイムシフト」が起こっているのだけど、
現代社会の行き詰まりを解決するには個々人がそれぞれ「パラダイムシフト」をしていかないといけないのではないかと、最近の色んな問題を見ると考えてしまう。

「ソメイヨシノもいいけど、山桜もきれいだよね」っていう社会が普通になればいいなあと、満開のソメイヨシノを観て思う今日この頃でした。

2015年2月24日火曜日

小屋作りスタート

友人のハギオ氏の協力のもと、ついに小屋作りが始まりました。

構想はずっとあって去年の秋から始める予定だったのですが、
日々やらなくてはならないこと(木を切ったりコーヒー豆を焙煎したり)に忙殺され中々始まらないことを見かねたハギオさんが
「俺が手伝うから」とのことで小屋作りを始めてしまうことにしました。

この写真の斜面と上の段に4畳ほどの小さな小屋を建てる予定です。
 まずは斜面を切り崩し平らな場所を作り、石垣を築いていきます。
そこを建物の半地下にして、薪や外で使う道具の置き場所にします。
斜面を全て平らにするのではなく、地形を生かすことで労力も最小限にできるという設計です。

しかも石垣に使う石は敷地内で集められる物です(当然タダ!)。
大きな石は作ることはできないので、大切な資源なんですよねえ。

ユンボはなどは使わず、全て人力での作業です。
何が大変かと言うと、斜面を掘るよりも大きな石を運んで来ることが大変でした。

まずは角を決めてちょうど四角になっている大きな石を置いてみます。
 掘っては石を置きを繰り返します。
 ハギオさん登場!
石を運んだり、土を削ったり、2人になると作業が2倍以上にはかどります。
しかも色々できるハギオさんなのでおおいに助かりました。
ハギオさんありがとう!

石垣を2段目まで築いたところ。
一番高い所で3段目まで石を積みました。
ここまでやるのに2人で1日くらいでした。

今日でも田舎では石垣をいたる所で見ることができます。
昔は全て人力でやっていたと思うのですが、
あんな大きな石を(この写真の倍以上もある石)どのように運んで積んでいったのだろうと驚いています。

2015年2月20日金曜日

パーマカルチャーについて その1

Fryers forest in Australia "Permacultural Eco-Village"
突然ですが、「パーマカルチャー」という言葉をご存知でしょうか?
英語で書くとPermacultureです。

permanent(永久の)とagriculture(農業)またはculture(文化)を合体させたオーストラリア生まれの造語で、1970年代に当時タスマニア大学の教授であったビル・モリソンとその生徒であったデビット・ホルムグレンによって作られた学問体系と言われています。

パーマカルチャーの定義は下の本から引用します。
『パーマカルチャー −農的暮らしの永久デザイン−』1993 ビル・モリソン/レニー・ミア・スレイ著 田口恒夫/小祝慶子訳 農文 p. 7
パーマカルチャーというのは、人間にとっての恒久的持続可能な環境をつくり出すためのデザイン体系のことである。パーマカルチャーという語そのものは、パーマネント(permanent 永久の)とアグリカルチャー(agriculture 農業)をつづめたものであるが、同時にパーマネントとカルチャー(文化)の縮約形でもある。文化というものは、永続可能な農業と倫理的な土地利用という基盤なしには長くは続きえないものだからである。
これだけではあまりピンと来ないかもしれませんが、かつての日本の田舎で見られた「里山」や、現在では「持続可能な循環型社会」などと言った感じを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。
パーマカルチャーでは、「恒久的持続可能な環境をつくり出すためのデザイン」をするために多くの学問分野の知識を動員しています。
生態学、環境学、気象学、建築学、農学、地形学、電気に関することなどなど…。
さらには、自分の住む土地だけでなく、地域や社会のことも視野に入れて持続可能な環境をデザインしていきます。

もちろん全ての分野でエキスパートになる必要はないと思いますが、ある程度の知識とそれらを横断的に使いこなす必要は出てくると思います。
ある意味、「百姓」的だし、里山に近いものがありそうですね。

自然の力を利用しつつ持続可能な生活を作り上げていくという点では、パーマカルチャーも里山文化も目的は同じですが、パーマカルチャーではそのような生活をあらかじめ「デザインをする」という点で少し異なるかもしれません。

日本の里山は、限られた自然環境の中で自分達が永続的に暮らしていけるよう長い年月と人々の知恵を集めて洗練されていった生活スタイルです。
長い間パーマカルチャー的な生活をしていった「結果」とも言えます。

化石燃料の台頭と高度成長の影響で里山が失われつつあると言われて久しい現在では、もし我々のような若い世代(30代)が里山文化を継承したいと考えた場合、里山について本で読むか、まだ里山文化が残っている場所に行って体験するか、あるいはまだご存命のご老人に教えていただきながら自分が実践していくという方法が考えられると思います(他にもあるかもしれませんが)。

では、日本には里山文化というものがあるのに、あえてオーストラリア生まれのパーマカルチャーを学ぶ意味はどこにあるのでしょうか?

先ほども述べたように、我々の世代で特に都会から田舎に移住して来た場合(いわゆる「Iターン」)、どのようにしたら周囲の自然環境になるべく負荷をかけずに、自給自足的な生活ができるかと考えると、何も知識も経験もない中で生活していくのは難しいと思います。
そこで指標になるのが、パーマカルチャーというものだと私は考えています。
どのような土地を選べば良いか、それをどのように利用したらいいか、周囲の地域の状況はどうかなど、あらかじめデザインできれば(想像できれば)、田舎暮らしもしやすいのではないでしょうか。

私のような小柄で細身で眼鏡の都会のもやしっ子みたいな人間が(もやしは大好きですよ^^)、いきなり志しの高さだけで「田舎暮らしをする!」なんて言い出したら周囲の人は止めるでしょう。
まあ、実際止められもしましたけど(笑)。

ただ、私自身はオーストラリアでパーマカルチャーを3カ月半ほど学び、日本でも1年近くかけていくつかの農家さんの所で研修をし、さらに金銭的な準備もしてからここ岡山に来ました。

ここ草が生まれる農園も基本的にはパーマカルチャーを参考に周囲の環境をデザインしつつ勉強しつつ、暮らしています。
パーマカルチャーについては、まだまだたくさんありますので、またシリーズでブログに投稿したいと思います。

fryers forestのコミュニティハウスにて
中央後ろにいる眼鏡の若者が私

2015年2月17日火曜日

工房のロフト作り

段々と春の足音が聞こえる今日この頃ですが、ここ岡山では早くも空中に様々な微粒が漂っています。
花粉、黄砂、PM2.5(この言い方で正しい?)などなど。
「空気がきれい」が自慢の田舎でも容赦なく降り注ぎます。

数日前からなんか咳が出るなあ、風邪かなあ、なんて思ってたらそういうことだったのね。
そんな時はぬるい三年番茶に塩を入れて喉と鼻のうがいをして対応します。

さて、セルフビルドの草が生まれる工房の菓子工房にロフトを作りました。
前々から作ろうと思っていたのですが、材料もあるし、ちょっと作らないといけない事情もあったので急遽作ってしまいました。

コンポストトイレを作った際に余分に買ってしまった2×4の角材を利用します。
まずは「墨付け」。
「墨付け八年」と昔の大工さんが言ってたように、
これがちゃんとしていないと後が全て狂ってしまうんですよね。
とはいえ、日曜大工レベルの私にはそこまでの精度は難しいです(そもそも8年もやってないし^^)。

1寸(30.3mm)×1寸をカットします。
あの「一寸法師」の一寸です。


写真奥の梁(はり)と手前の梁の間にロフトを作ります。

ノミやノコギリなど手持ちの道具を駆使して、先ほどの床の土台となる角材(大引)が入るように梁に穴を彫っていきます(これをホゾ穴と言います)。

見えづらいかもしれないので、別角度で。
本当はもっと抜けにくいホゾもあるのですが、難易度が上がる分時間もかかるし、
そこまでしなくても大丈夫だろうということで、四角いホゾ穴です。

15寸(455mm)間隔で大引を入れていきます。
よーく見ると少しすき間が空いているのはご愛嬌ということで。

床の縦がの長さが6尺(約1820mm)になるようにするため、5本の大引を入れました。
この5本の大引を付けるために10個のホゾ穴をひたすら彫り続けたましたよ〜!

後は床となる杉板(相じゃくりはなしで)を並べていきます。

そんなこんなで完成です。

before
after 

細かい部分を見るとけっこういい加減ですが、本職の大工さんではないので十分な出来と言えるのではないでしょうか。
材料費は約5,000円くらいかな。
2人で1日仕事とはいえ、5,000円でロフトが作れちゃうなんて安いですよね?

技術的には何も難しいことはしてないし、素人レベルで必要なのは「やる気」と「根気」だと思います。
こういうことをしてると、器用だと思われがちですが、まったくそんなことはなく、どちらかと言うと不器用な部類に入ると思ってます。
小さい頃から図画工作は苦手だったし、簡単なプラモデルなんかでも完成させたためしはないし、塗り絵なんか絶対はみ出すし、そもそも大雑把な性格なんですよね。

まあ、こんな私でも小屋が作れてしまうので、まずは机や棚でも挑戦してみることが大事ではないかと思います。

2015年2月13日金曜日

「豊かさ」の条件のひとつ

立春が過ぎ、日が延びて春が段々と近づいてくるのが感じられます。
そろそろ畑の準備もしないとな、ということでちょっと畑の様子を見に行きました。

自然農の畑も4年目に突入です。
ちゃんとニンニクも育ってますね〜。がんばれ〜!

まだ畑に残っている野菜達を収穫しました。
白菜も大根も小さいし、小松菜は虫食いだらけだけど、どれもおいしいです。

昨年は里芋が大豊作でした。
もちろん、農薬も肥料も一切使わずにです。

最近、「豊かさ」についてちょっと考えていた時に、
「おいしい食べ物が身近に手に入る」ということがひとつの条件ではないかなあと思いました。
「豊か」であるとはどういうことでしょうか。
お金がたくさんあること?物がたくさんあること?便利であること?
それらも「豊かさ」の条件ではあるでしょう。
粗悪な物がたくさん供給されている状態とは違いますよね。

「豊かな」という形容詞の後に付ける言葉をちょっと思い浮かべてみると、
自分なんかは「豊かな自然の恵み」、「豊かな海」など自然から受けるおいしい食べ物を連想してしまいます。
その豊かな自然から「おいしい食べ物が身近に手に入ること」って豊かさの条件としてけっこう上位に来ると思いませんか?
野菜は人為的に作られた作物という意味で厳密には「自然」とは違うかもしれませんが、
その議論はここでは置いておきます。
でも人は自らその豊かな恵みを与えてくれる自然環境を壊したりしてしまいますよね…

そんなことを考えていたら、ふと5年以上も前にいったインドの田舎の家族を思い出しました。
インドに旅行した際にカルカッタで知り合ったインド人のお兄さんに招かれ、カルカッタから電車で一晩走ったかなりの田舎まで行き、そのお家には2週間ほどお世話になりました。
おそらくその村に来た初めての日本人だと思います(笑)。


その家は電気もガスも水道もない、風呂もトイレもない家でした。
夜は当然真っ暗だし、お風呂は昼間に井戸水でさっと浴びるだけ、
トイレは外で用を足すという具合で今の日本からだとちょっと想像のつかない生活ですよね。
お世辞にも裕福とは言えない環境の中でも子ども達は元気だし、
私も毎日みんなで歌を歌ったりしながら笑顔の絶えない楽しい時間を過ごしてました。

一番左の子はよく見かけたし一緒に食事もしてたけど、ここの家の子ではなく、近所に住む子でした^^

9人兄弟の一番上のお姉さん(写真の右にいる女性)が作るチャパティは絶品で、
カレーも具は少ないものの、スパイスはその場ですり潰し、香りも味も最高でした。

毎食こねては焼きの繰り返し。
1日2食だったけど、お腹いっぱい食べてたし貧乏で惨めな感じはいっさいなかった印象があります。

お世話になった家族の写真です。
9人兄弟で、招いてくれたお兄さんは「魂が抜かれる」みたいなことを言い、写真に写らず(笑)
一番左の女性がお母さんで、お父さんは出稼ぎ中とのことでした。

2週間程度の滞在でしたので全ては分かりませんでしたが、
畑もやっていて、鶏も飼っていました。
スパイスなどはときどき買い出しに行ったり(歩いて片道2時間ほど!もちろんスーパーではなく)もしてましたが、
やはり身近で採れて、自分達で作るおいしい食べ物を家族で食べるが基本でした。

お金も物も、ましてや日本で当たり前のインフラ設備もないけど、
毎日おいしいものを食べ笑って過ごす家族に「豊かさ」を感じました。
もちろん現実には大変なことも多いと思いますが、でもやっぱりお金や物があればいいわけではないなあと思ってしまいます。

このインド滞在記もまた紹介したいと思います。

2015年2月6日金曜日

二代目コンポストトイレ作り

コンポストトイレという物をご存知でしょうか?
水を使わないエコなトイレとして、または災害時に役立つトイレとして知ってらっしゃる方も多いと思います。
バイオトイレとも呼ばれています。

コンポストトイレは、基本的には水を使わず、おがくず(木を切った際に出る木の粉)や籾殻を排泄物にかけ、溜まったら土に還していくというものです。

水分を分けたり、プロペラみたいので撹拌して発酵を促すタイプもありますが、
うちではそれらの装置を付けずにおがくずをかけるのみにしています。

臭いはほとんどなく、木のいい香りがすると言ったら言い過ぎかもしれませんが嫌な臭いはしません。
むしろ公衆トイレや昔のぼっとん便所の方がきつい臭いがするのではないでしょうか。

おかくずは近所(と言っても車で15分ほど)の製材所に半年ごとくらいにもらいに行きます。
溜まった排泄物は約1カ月に1回のペースで家の裏に捨てる場所を設けて土を掘ってそこに入れます。
何年か経ったら排泄物もおがくずもすっかり分解されて畑の肥料にも使えるのですが、
うちでは畑に肥料を使わないで作物を育てているのでそのまま土に還って行くという具合になってます。
前に捨てたおがくずの中からカブトムシの幼虫が出てくるという特典(?)はあります。

トイレやお風呂といった生活排水に大量の水を必要とする現代の住宅ですが、日本ではそこまでトイレの水に神経を使うほどには困っていませんよね。
しかし、使える水が少ない国や地域や、または災害時では大変有効なトイレとなります。
下水が通ってないわが家でも有効です^^

さて、本稿の本題に入ります。
3年ちょっと前、こちらに引っ越した時に最初に作ったのが下の写真のコンポストトイレでした。
在り合せの廃材で作り、すぐに作り直そうと思っていたら3年以上経過していました。
屋根が壊れていたので、さすがに屋根だけでも改装しようと思っていたところ、突然土台の部分が崩れ、トイレが崩壊しました(笑)
一瞬で崩れしまい、「なんでもそうだけど、壊れる時は一瞬なんだなあ」としみじみしてしまいました。

トイレがないと困る!ということで、他の全ての仕事を置いて二代目コンポストトイレを急遽作ることにしました。

今後コンポストトイレを作る方のためにも参考に写真を掲載します。

外寸は910mm×910mmです。
400mmの柱を土台にします(独立基礎)。

外寸が910mm×1820mmになるよう枠を2×4材で4つ作りそれを合体させます。

その上に桁と垂木を乗せていきます。
屋根の横幅は1800mmで、縦も1800mmとなります。
45mm間隔で垂木を5本置きました。
この寸法にすると、前後左右をはみ出すようにして波トタンがちょうど3枚になります。
屋根の角度は適当にしてしまいました^^
写真からは見えませんが一応、桁の垂木を乗せる部分に溝を掘ってますよ〜。
 

昼間に電気が必要ないよう、透明な屋根にしました。
夜は電池式のセンサーライトを取り付ける予定です。
夏の暑さが心配ですが…

壁は910mm×1820mmの針葉樹の合板です。
これを側面と背面に貼っていきます。
トイレだし、今回は窓なしです。

知らない人が見たら「なんだろう?」と思いそうな建物ですね(笑)

思ったよりも狭くなってしまいましたが、まあ良しとします。


 後は扉を付けて完成です。
扉は倉敷の天文台の事務所を解体した時にいただいてきた古い物です。
取手の部分がレトロな感じがしていい感じになってます。

一部窓が壊れていますが(笑)、ほぼ完成しました。
サザエさんのエンディングに出てくる小屋みたいになりましたが、いかがでしょう?
温かくなってきて臭いや虫が気になりそうだったら、横に渡している木にレモンバームやミントなどいい香りがして虫除けになる植物を置こうかしら、なんてちょっとおしゃれなことも考えています。
それを食べるのには勇気がいりますが^^

このトイレを作るのにかかった時間は、2人で約1日半というところです。
3年間いろいろ作ってきて技術も知識も増え、けっこういいトイレができたと自己満足しています。
材料は新しく買って来た物が2万円ちょっとでしたが、
普通トイレを新しく作るとなると何十万円もかかると思ったら安いもんですよね。

今回はトイレになりましたが、この小屋の作り方は物置小屋でもちょっとした休憩所でもなんでも応用がききます。
街中に住む方でもホームセンターで手に入る材料でできてしまうので、
挑戦されてはいかがでしょうか?

2015年1月30日金曜日

自給自足する上でお金をどうするか


現代を生きて行く上で避けては通れない「お金」の話。
さすがに最近は言われなくなりましたが、田舎暮らしを始める準備期間中は「どうやってお金を稼ぐのか?」という質問をよくされました。

自給自足の生活をしようとしても、やはりお金は必要です。
車は乗るし、チェーンソーも使うし、電動工具も使うし、野菜の種は買うし、電気も使うし…
うちはコーヒーやお菓子や紅茶を売っているので、そもそも商売をするのに仕入れの資金がいります。

その前に、「働く」ということをちょっと考えてみます。
人に限らず、地球上の全生命が生きて子孫を残すために日々働いています。
植物もせっせと光合成しています。微生物も働いています。
「働く」という事は「お金を稼ぐ」と同義ではないのですが、人間は(笑)つい混同してしまいます。

会社で働くことはもちろん、家事や育児も働くことです。
畑で野菜を作ることも、自分で家を建てることも、薪でお風呂を沸かすことも労働です。

お金を払う場合、自分ができない(または作れない)事の対価としてお金を払ってやってもらうということだと思います。
あるいは、人力では大変なことを機械やエネルギーを使って効率よく行うことにお金を払うということもあるでしょう。
本来、お金はそういう時に必要になるということだと思います。

田舎暮らしをして自給自足的な生活をすると、基本的な生活費である

  • 居住費
  • 食費
  • 水道光熱費

これらを自分で生産することで、毎月かなりの額のお金が必要なくなります。
家を自分で建て、畑を耕し、薪で暖を取り料理をしお湯を沸かす。
生活に必要な道具も作り、服も作っちゃう。

けっこう楽しいと思いません?
楽しいしお金もかからない!
もちろん、良い事ばかりでないけど、こんな生活もあるのです。
日本でもつい半世紀前までは田舎ではこんな暮らしをしてたので、みんなできないことではないと思います。

結局言いたいことは、「お金は必要だけど、何のために使うかが大事」なんですよね。
多くの事がお金を使えば解決できてしまうけど、そればっかりだといつまでたっても「働くこと=お金を稼ぐこと」になってしまうのではないでしょうか。

あまりまとまりのない話になってしまいました。
また機会があれば、このお話をしたいと思います。

↓お風呂を沸かしているところ





2015年1月23日金曜日

石と資源の話

「資源」という言葉を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?
石油や石炭、天然ガスなどの地下資源、木材やバイオマスのための地上資源など。

しかし、ちょっと考えて身近に手に入る物でもありとあらゆる物が資源となり得ます。
うちの周囲で手に入る資源を思い浮かべると…人、雑草、植物の蔓、薪、竹などけっこう多いことに気がつきます。

今日、これも重要な資源だよなあと思ったのが、「大きな石」または「岩」です。
石垣を作ったことがある人は分かるかもしれませんが(そう多くはないと思いますが)、けっこう石や岩を使います。
普段何気なく転がっている石、時として邪魔になるような石も、ひとたび石垣に利用し出すととても価値のある物となります。
何に対してもそうですが、ただ存在している物が人間の価値判断で善し悪しが決まることがよくありますよね。
雑草、害虫(益虫)、害獣など彼らには罪はないのに(笑)、悪者にされてしまうこともあるのです。
時として、人に対してもしてしまいますが…

話は逸れましたが、昔のお城や立派なお屋敷などの石垣は、わざわざ質の良い石をちょっと遠くから運んで来ていました。
岡山県では瀬戸内海の犬島も石の産地だと聞いています。
その他の地域でも良質な石が採れる産地があるそうです(気になる方は各自で調査を)。

これからわが家の敷地内に平らな土地を広げるために、斜面を削り石垣で土留めをしようと予定しています。
その際に石がたくさん必要なので、ふとそんなことを考えました。

2015年1月20日火曜日

無駄がないということはエコということ

こんにちは。
寒い日が続きますね。

冬は薪仕事ばかりです。
去年の暮れに切っておいた木の処理をします。

仕事をしていると、切り株に小鳥さんが遊びに来てくれました。
 なんていう鳥だろう。


 実は、木は切った後の枝の処理なんかが大変です。

そのままでは運べないので、少し切ってから運びます。

 幹などの太い部分はさらに使う長さに切って(これを玉切りと言います)、斧で割っていきます。
薪割りのコツは力ではなく、体のキレです^^
木目に沿って斧の歯を入れてあげるとパカンと割れますよ。

太めの枝は適当な長さに切ってお風呂用にします。このサイズの薪は夏もお風呂に使うのでけっこう必要となります。

割った薪は積んで乾かします。最低でも3カ月は乾かしたいところです。
本当は1年以上乾かした方がいいのですが、薪の使用量が追いついていない状況なのです。

細かい枝は焚き付けや「かまど」で使います。

乾いた薪からすぐに使えるように家の中に入れておきます。
冬中このサイクルで進んでいきます。

木は薪にすると全て燃やすことができますし、葉はそのまま山や畑の肥料になるし、無駄なく利用できるのです。
自然界はうまくできていますね。
自然の営みとなるべく沿うように暮らしていると、それだけでエコになるんだなあと関心しています。

うちではガスも使用しています。その中でも地元のガス屋さんに頼んでいます。
緊急のトラブルにも対応してくださいますし、お菓子を作る時やコーヒー豆の焙煎ではガスを使っているので色んな相談にものってくれます。

生活する上でもっとも重要な熱エネルギーをなるべく自分が見えるようにしておくことが大事ではないでしょうか。